リレーエッセイ10月
首から下げたポシェット 村上比子
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。幼い小学生二人が乗る列車は、始発の豊後竹田駅を出発し、乗車の少ない田舎の町や山々を抜けて八代市内へと向かっていた。青々とした山間の木のトンネルを抜けて、阿蘇の大きな空をぐんぐんと駆け抜けて列車は走っていた。当時、父の単身赴任先は八代市にあり、道路整備を行う国土交通省の一員である父の勤め先の事務所から大きな花火が見えるということで、花火大会に呼ばれたのであった。
「いいね。歩くときは義聡の手を離したらいかんよ。リュックに入ったおにぎりは、列車の中で食べるんよ。何かあったら、駅員さんにこれを渡すんよ。」そういって、首から下げた手作りのポシェットに小銭と小さな紙を入れて、母は列車を不安そうに見送った。生まれたばかりの弟と4歳の妹は母とお留守番となり、初めて自分の傍を離れて小2と小1の子供たちだけで旅をさせるこの機会に、勇気をふりしぼっていた。そうとは知らず、子供たちはワクワク、ドキドキで列車に乗り込み、4人座席の向かい合わせの窓際に二人座らせてもらい、窓から精一杯手を振って小さくなる母の姿を見ていた。
母は、歩き始めた1歳の私を抱え絵画教室へ子供連れで通っていた。私はクレヨン、クレパス、コンテ、絵具と汚れ放題遊ばせてくれるこの場所で育ち、幼稚園でも小学校でもお絵かきは自由に出来るよう育った。「見るものには沢山の色があふれている」ということを覚え、色は混ざり合うことで固有の色になり美しく輝くということを風景や自然の中で知り、今となってはそのことで、色や形をとらえる力=センスが養われたように思う。
久住の山を走る列車は流れる風景が新鮮で、美しい風景や花々を車窓から見ることが出来て飽きなかった。列車の中でも絵を描いた。そうしてようやく宮地駅へ。宮地駅に到着すると、乗り換えの列車に乗らなければいけないという最大のミッションがあった。
「終点、宮地~宮地~。」アナウンスが車内に流れ、キキキー。プシューッツ。
「義聡!降りよう!おもちゃ入れて、リュック背負って!」「降りま~す。」
列車の間に落ちないように、弟を駅員さんが抱えてくれた。宮地駅は、線路を渡って反対側の乗り場に行かなくてはならなかった。トイレを必ずするように言われていたし、もたもたしていると乗り遅れる。弟とダッシュで駅構内を手をひっぱって走った。「出発!」ピーッ。笛がなり、連絡列車は走り始めた。スイッチバックで列車が止まった時は、乗り間違えた!と気が気ではなかった。子供ながらに変な汗も出たが、そんな不安そうな顔を知ってか、向かい合わせに座っていたおばちゃんが「ジグザグに進んで登るんよ。」と言ってくれたのを覚えている。列車に慣れてきたのかウトウトする弟の横で、見知らぬ土地への旅の緊張感が継続中の私は、弟の手を握ったまま外を見ていた。ガタンゴトンと列車は走り続け八代駅へと到着したのだった。大きく見える駅舎をキョロキョロしながら改札を出ると、迎えの父の姿はなく、代わりに来ていた会社の社員さんに声をかけられ、父のいる事務所へと向かった。
その夜の花火は、大冒険の旅を達成し、不安から解放された清々しい気持ちで、本当に大きな、大きな花火だったと覚えている。この旅は、子供の記憶の中で鮮明に覚えているエピソードの1つとなっていて、この成長の思い出は一生忘れることはないだろう。自然の環境や色彩、刺激や経験のいろいろを親は与えてくれていた。そのことは今の自分をつくっていると気づかされる。
母が、私のポシェットに入れた小銭と小さな手紙は、家に電話をかけるために必要な10円硬貨と電話番号が書いてあり、後の話で、母は「途中の宮地駅から電話をしなさい。」と伝えたつもりだったようだ。父のもとに着くまでの時間。母は母なりに心配し、親として成長しようとしていただろう。お彼岸を迎え、思い出をありがとうと母に手を合わせた。