リレーエッセイ8月

思い出        福田邦子

 SI熊本-すみれに入会して、私は、今期33年目を迎えました。
 毎年5月にクラブでは恒例の行事の一つとして年祝いの会がございます。その会で、私は喜寿のお祝いをしていただきました。「えぇ~もう喜寿!」自分でもびっくり致しました。皆様と同じように、気持ちは若いのですが、もう77歳!!。体力・気力の低下は否めません。こればかりは真摯に受け止めなければなりません。
 ところでこの年になりますと、どうしても、過去(若い時のこと)を懐かしく思い出す習性があるのでしょう。私も、子供時代に何の憂いもなく大好きな日本舞踊に専念していた時の思い出があります。
 手元の古いアルバムの中に一枚のセピア色の写真があります。昔、練兵町にあった歌舞伎座での浴衣会の発表会の写真です。その写真の下には、母の字で昭和21年4月と書いてありますので私の3歳のころの写真だと思います。そして「からすなぜ泣くの・・・」という童謡を踊っているときのものでした。
 私は、小学校、中学校、高校時代は家族と一緒に過ごした思い出はあまりなく、ほとんどを古城堀端の日本舞踊のお稽古場で過ごしていたように思います。日本舞踊が大好きだったのでしょう。
 結婚して4年目、母が他界し、母の後を継いで私が病院事務一般の仕事をする事になりました。そうなると時間のゆとりがなくなりだんだん日本舞踊の世界から遠のくことになりました。
 母のもとで20数年間大好きな日本舞踊を十分にさせてもらいました。子供のころ、毎年毎年大舞台を踏ませてくれた母に今も感謝しています。
 因みに、「供奴」「清元の子守」「越後獅子」「手習子」「操り三番叟」「連獅子」「櫓のお七」「屋敷娘」「三社祭」「お光狂乱」「傀儡師」「鐘ケ岬」「三ッ面子守」「勢獅子」「京鹿小娘道成寺」「鷺娘」等々、思い出すときりがありません。
 昭和29年2月26日(小学校5年生の時)には、芸名令免許 藤間紫邦をいただいておりました。まだ、小学校の時、この名取の免許が何なのか意味も分からなかったと思います。
 私の人生の三分の一を大好きな日本舞踊で舞台に出させてもらった私ですが今では大切な思い出になっています。
 私の母は、私が30歳の時(母は享年58歳)他界しました。私は母親孝行をすることなく旅出させてしまったことに大いに反省しています。が、一時も母への感謝、母の存在を忘れたことはありません。私を今も励まし続け見守ってくれていることをしっかり感じています。