リレーエッセイ4月

母への思い   福田邦子

 私が30歳を迎えた時、私の母が亡くなった。今から50年前である。母は享年58歳であった。誰でもそう思うのだろうが、私も母はずっと生きていてくれるものと思っていた。それまでの私は、母に甘え、私自身好き勝手に生活をしたのである。母が亡くなった時、家庭のことは誰が面倒を見るのだろうか、家業の病院のことは誰がするのだろうかとぼんやりとしていて考えてもいなかった。気が付くとそのことをするのは私しかいないのである。父に「これはどうするの?」と聞いても、「それはお母さんがしていたから私にはわからない」というばかり、父も母に甘えっぱなしだったのである。当時、アメリカに住んでいた姉は、母の葬儀のために一時帰国をしていたのだが、「邦子、大丈夫?貴女に、病院経営のことができるの?」と心配をしてくれた。
 私は、泣いた、泣いた、どうしていいかわからないのである。私に何ができるのだろうか、今まで、母の手伝いをしてこなかった自分を恨んだ、そして反省もした。でも、これから私がしなければならないのだと気が付くと、その日から私は今までのお嬢さんではなくなった。これから、母がしていたことを私がしなければいけなくなったのだ。
 母の座っていた仕事机に私が座り病院の仕事が始まった。その時、従業員が32名。病院のベッド数は36床だったと記憶している。何をしていいのかわからないまま、時間だけが過ぎてゆく。しかし、ただ、じっとしているわけにはいかない。病院の外来受付に座って医療事務の見習いをする。薬局の薬の在庫管理の手伝いを、また、給食部へ行って調理場に立ち病院給食を手伝う、看護師の勤務表まで目を通した。母は何せ一人で、病院のすべてに首を突っ込んでいたのだ。だから私も一からの見習いスタッフとして仕事を覚えなければならなかった。
 私が仕事を始めてから一年間、大変困ったことがあった。それはいろいろな役所から
督促状が毎月のように届くのだ。父にも聞きようがなくて困ってしまった。母の仕事場の書類からそれらしい仲間の書類を探し風呂敷に包んで、関係役所や関係事務所を訪ねることを一年続けた。恥も外聞もなくである。「申し送りなしに突然母が亡くなりましたのでどうしたらいいか教えて下さい。」と言ってである。関係先では、本当に懇切丁寧に教えてくれた。私は何も知らなかったのである。その時期、私は真剣に仕事をしたと今でも思っている。このような状況が一年を過ぎ、2年目からは、あぁ、これがあの時の書類か、あの納入書かと徐々に理解ができたのである。辛い一年であった。
 今考えると、より辛い仕事があった。従業員の毎月の給与の支払いである。25日締めの27日支払い。これには、私は寝る時間もなく仕事をした。タイムカードから一人ひとりの支払額を計算し給料計算書を作成して、給与明細書と一緒に一円玉までの現金を封筒に入れる作業である。このころまで、コンピューターというものがなかったし、まだ計算機もやっとできたころだったので手書きでそろばんを使っていた時である。あの頃が一番辛かった時間だったような気がする。今だから懐かしく語れるが、若さがあったからやり遂げられたような気がする。しかし、従業員が100名超えた時は、さすがに私もヒステリックになっていた。仕事をやってもやっても終わらないのである。12月の年末調整計算時期は特に辛かった。今のように給与を銀行口座に振り込むというシステムはまだできていなかった。夫に、私は職員が一人欲しいと訴えたことがあったが「お前は一人でやれるから大丈夫」と聞き入れてもらえなかった時があり、その時は、私は精神病院に入院しようかと思ったほど落ち込んだ。
 母の仕事を私がするようになり、10年、20年と過ぎていったが、病院も大きくなり、従業員も増えて、今度は私一人では手に負えないようになり総経部も1人、2人と人数の確保もできた。そして、次の人材への引継ぎもできた。ということは、私はお役御免になったのだ。そのころの事を考えると、定年退職する人の気持ちがよくわかる。何しろ仕事がなくなって寂しいのだ。しかし、自然体で引継ぎもでき、総経部も落ち着いて仕事をしてくれている。何よりも感謝である。
 母が若くして亡くなったこと、このことは、本当に無念なことなのだ。しかし、自分のことを考えてみると、30歳にもなって世間のことを知らずにぬくぬくと母の愛に抱かれて過ごしていたあのお嬢さん時代。そのお嬢さんには大変悲しむべきことだったかもしれないけれど、世間のスタートラインに立たせてもらって、世の中の苦労を学ばせてもらった。
 夫は、「お前の苦労は、ほかの人に比べれば、たいしたことはない。本当の苦労は計り知れないほどあるのだよ。」と言ってくれる。そうなのだろう。母には親孝行することなしに逝かせてしまったが、母は、私のことを思って早く逝ってしまったような気がする。今、母が生きていれば、私は母に甘えて何もできない大人になっていただろう。母を亡くした当時、こんなに不幸なことがあるのだろうかと思っていたが、そうではなく私を一人前の大人にするために母は早く逝ったのだと思う。いろいろな思いが胸に一杯あるが、亡き母には心からの感謝を伝えたい。