「りーん、りーん……」
「蟻田滋子先生のお宅でしょうか?」
「安田治子、ノンちゃんの母です!」
この一言で私はたちまち40数年前にタイムスリップした。
未熟児センター
1963年8月28日、武蔵野赤十字病院の未熟児センターは、熱気と緊張に包まれていた。
真新しいインキュベーターは万全の準備を整え、センター第1号となるベビーを待っていた。
10年目にしてやっと恵まれ、待つに待たれた赤ちゃんは、体重800g。8ヵ月の早産で両の掌に乗るお人形のようだ。
体重1,000g以下で生き抜いた未熟児の記録は未だ無い。インキュベーターの酸素濃度も、飲ませるオッパイの量も回数も、みんな文献と手さぐりの毎日が始まった。
唯一の救いは元気な泣き声だった。
無事にお七夜を迎え、「紀子:のりこ」我らがアイドル「ノンちゃん」命名。
母の決意
間もなく体力を回復した安田さんは、来る日も来る日も絞った母乳を持って、午後2時から4時まで1時間かけて病院に通い詰めた。
お乳は張るのに未だ手を触れることも許されない我が子。でもノンちゃんが待っている。私が行かないとノンちゃんが……。
遂にまる1年間、安田さんはただの1日も休むことなく通い続けた。
それこそ雨の日も、風の日も、雪の日も、灼熱の日も、台風の日も……。
我が娘たちの抵抗
ある日曜日、病院に出かけようとした私の前に、妹えりか3歳の手をシッカリと握りしめ、長女ばら6歳が決然と立ちはだかった。
「ママ、病院の赤ちゃんと、ばら、えりかとどっちが大切なの?」
その瞳は恨み、哀しみ、そして諦めがない混じって青い炎と燃えていた。
絶句したまま駆け寄って二人をぎゅっとただただ抱きしめる。
今もその瞳の切なさがふっと私の胸を突き刺してくる。
退院、別離
山あり谷あり、無我夢中の1年はまたたく間に過ぎ去り、ノンちゃんは体重6kgのニコニコ笑う愛らしい赤ちゃんとなって、いよいよ退院。
両手にノンちゃんをしっかりと抱きかかえた、晴れやかなそして誇らしげな母の笑顔は美しかった。
そして私たち家族も世界保健機構(WHO)に勤務する夫のもと、スイスへ。
邂逅
ある日、安田さんは新聞紙上に「蟻田」の講演会の記事をふと眼にした。
もしや?もしかしたら……?すがる思いで取った受話器は見事につながったのだ。両親、叔母夫妻と共に我が家の前に降り立ったノンちゃんはもう、42歳の成人女性。やや小柄ながら、くる病なし、蒙古症なし、網膜症なし、etc……。
もしも未熟児に課せられた数々の疾病があったなら……。幸いにも恐れていた私の危惧は、一瞬にして吹き飛んだ。
「先生、お逢いしたかったです!」
東京で出会った2家族が40数年を経て九州で再会したのだ。
そして、ノンちゃんの一言。
「私、生まれて良かった、生きていて幸せです。」
私は長い人生行路の間、たった一度でも、こう呟いたことがあるだろうか?
白い糸
あの日、精一杯の抵抗を示した長女、ばらは現在ジュネーブ大学医学部教授。
朝な朝な「ママー、行かないで!行かないで!」母に取りすがりわめいたその娘カミーユ:愛は、同医学部在学中だ。
母、娘、孫娘3代これも見えない絆の企みだろうか……?